美容は宗教みたいなものだから人の美容法を否定してはいけない

 

人にはそれぞれ信仰している美容法がある。



こんにちは、サオリです

12歳の頃から吹き出物に10年以上悩まされ続けていたのもあり、昔から美容には興味がありました。

いろんな本や、ヘアメイクの専門学校で出会った美容の意識が高い友達と関わる中で思ったのが「美容は宗教」ということ。

 

美容は信じるが先


世の中には信じられないくらいの美容法がたくさんあり、どれを信じたらいいか分からない。

美容法だけでもたくさんあるのにそれプラス、無限にアイテムがあるから自分が得たい効果を得られなかったとき

美容法が悪かったのか、それとも使ったアイテムが悪かったのか、原因を特定するのも困難。

効果がでるまでに時間がかかるから、無限に近い選択肢の中からとりあえず自分の選んだ美容法とアイテムを信じてみるしかない。


私が長い間選んできた美容法は日本では一般的なクレンジング→化粧水→乳液→クリーム→美容液というプロセスを踏んだスキンケア方法。

一般的であるという事はこの方法で多くの人が“救われている”という事。

だから、わたしもこの方法で救われるに違いないと思った。

しかもこの方法は多くの人がやっているからまず人に「あなたの信じることは間違っている」と否定されることはない。


何を信じているかが大事な人もいる

 

私は美容法や使っているアイテムを否定されるのがかなり怖い事だった。

人一倍肌について深刻に悩んでいたから、「それ良くないんだよ」などと人から言われたり、美容雑誌に自分の信仰している美容法と真逆の事が書いてあったら

「信じるものが間違っているからそんな肌なんだよ」と言われているみたいだったから。


正直、肌がきれいになるよりも自分の美容法が一般的に支持されていること(何を信じているか)の方が重要だったかも。

何を信じているかが重要って、私以外にも結構いるんじゃないかと思っている。


人の美容法に対して「えー老けるよー!」「それ肌に良くないんだよ」と口出ししてくる人がいる。

私も昔友達にクレンジングオイルを使っていると言ったら「オイルって良くないんだよー、やめなよー!」と言われた。

一人ひとり体質が違うんだから美容法は人と違って当たり前。


自分がどういう体質なのか自分が一番分かっているのにわざわざ人にアドバイスしてくるとは余計なお世話だと思ったし、

なんでそんなことを言ってくるんだ?と思った。

肌が汚いから美容に無頓着な奴だと思われているのか?とも思ったけど、そういってくる人たちの雰囲気を察するになんだかそうでもない。


考えてみた結果、自分の美容法を押し付けてくるあたり、「あなたの事を想って教えてあげている」というよりは「私の信じているものが正しいのだからあなたも信じよ」

と考えた方が私的にはしっくり来た。

この人たちもわたしと一緒で、何を信じているかが重要な人たち。

そしてその人たちもまた肌で何かしら悩んでいる。

美容法を間違っていると言われ傷つくのが怖いから、その前に自分と同等の肌かそれ以下の肌の人の美容法にケチ付ける。


ちなみにクレンジングオイルを否定してきた友達は、後日「オイルってやっぱいいらしいねー」とコロッとクレンジングオイル教に改宗した。

SNSインフルエンサーが「クレンジングオイルは良い」と言っていたらしい。

 

遺伝という抗えない壁から信仰心は生まれる


なんで「何を信じているかが重要」だったのかというと、遺伝という大きな壁を感じていたから。

吹き出物が改善されても、私の毛穴ポツポツ肌は完全に遺伝なので一生毛穴レスのツルスベ肌になることはない。

その遺伝を極限までカバーしようとなるとストイックな食事制限が必要になってくるんだろうけど、私にはそんなモチベーションはない。

仮にそれが出来たとしてもせいぜい毛穴が少し目立たなくなる程度でやっぱり毛穴レス肌にはならない。

このどうしようもない遺伝の問題を特定の美容法を信仰することによって精神的に救われようとしていた。


せめて一般的に支持されている、肌がきれいな人がやっている、または皮膚科医が勧めている美容法をやることによって一生報われない自分の肌を肯定しようとしていた。

評判のいい1万円の美容液をつけて「やれることはやっているんだからこれで大丈夫」と言い聞かせていた。

肌だけじゃなく、ヘアケア、ダイエット、健康法もそうなんだと思う。


ちなみに今は改宗して「基礎化粧品は使わない」という宗教を信仰している。

はじめて劇的に効果のあった方法で、つい基礎化粧品を使っている人に勧めたくなってしまうが、基礎化粧品信者もまた強い信仰心を持っているのでそこはぐっと我慢してる。(ブログには書くけど!)

美容は宗教みたいなものだから、相手の信仰するものを否定することになりかねない。


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マンネリを感じてしまうのは当たり前。ただ淡々とやるしかない



こんにちは、サオリです

ピアノ教室に通い始めてから今年で3年目になります。

最初は楽しくやっていたピアノもマンネリ化してきて3年目になってから練習時間が減ったり、1ヵ月レッスンに行かないなんてこともありました。

マンネリ化の原因は2つあって、1つ目はショパン飽きた問題。


ショパン飽きた問題

 

ショパンのワルツ集をやっていたのですが、もともと飽きっぽいので「今ショパンに飽きかけてんな」って思ったら他の作曲家の曲を弾いて寄り道しながらやっていました。

でも対策を立ててもショパンに飽きた気持ちは消えず…

練習してる最中は「これ一生終わる気がしない」と感じていました。


飽きたならやめて別の作曲家の曲をやっても良かったのですが、好きな曲ばかり弾く虫食い式?だと上達する気がしなかったし、

やる曲は先生に任せて順序良くやっていけば上達すると信じているのでショパンにしがみ付いてました。

 

バイオリンやりたい問題

 

2つ目の原因はバイオリンやりたい問題。

バイオリンはいつかやりたい楽器の一つなのですが、ピアノがマンネリし始めてからこの気持ちがふつふつと湧いてきてピアノの練習に身が入らなくなってしまったんです。


でもピアノでいろんな曲が弾けるようになってきているからピアノはやめたくない。

バイオリンのレッスンも受けるとなると倍の月謝を支払う事になる。しかも練習場所にカラオケボックスを使うとして金かかりすぎじゃね?

てゆーかピアノの練習時間の確保だけで大変なのにバイオリンもやるとかこれぜったい最終的にどっちも上達しないやつ。

でもやりたいー


なんてことをずっと考えていました。

 

ピアノは一生懸命やるから楽しい


ショパン飽きた問題については一生懸命さが足りなかったからかなと思っています。


学生時代にブラック部活で楽器が嫌になってしまったことがあるのですが、ピアノではそうならないぞ!と「楽しくマイペースに」を意識していました。

でも「楽しく」を「楽に」といつの間にか勘違いしてしまったんですよね。

物事って大抵楽しようとすると逆にめんどくさく感じませんか?


それに本当はもっとうまくなったら嬉しいくせに、ただの趣味だし、毎日練習時間そんなに確保できないからきっとすぐ限界が来る。

だからそこまで一生懸命にならずにほどほどにやればいい…と自分の気持ちにブレーキしてたように思います。

一生懸命やった結果、思うように上達しなくてつらい気持ちになるのが嫌なんだと思います。


一生懸命やるのは楽じゃない。でもこのままダラダラやり続けて憧れの曲を弾けるようになれないままは嫌。

せっかく夢中になれそうな事ができたんだから、ピアノを再開したときにあこがれた曲を弾けるようになって、もう一度学生時代の時みたいに感動してみたいなあと思っています。


でも一生懸命さも負担にならないように、今自分に必要なのは一生懸命さか、ゆとりかを見極めてやっていきたいです。

 

マンネリは当たり前。ただ淡々とやるしかない

 

バイオリンやりたい問題は「現実に起こっていることが最適」という言葉を思い出して折り合いを付けました。

バイオリンをはじめる事が難しい現実は、きっとこれはこれで自分にとっては最適な事で「今はピアノだけをやっていなさい」ってことなんだと思います。

不満を持っても現実は変わらないんだからただ淡々と現実を受け入れるしかないんですよねー。


あと思ったのが、ピアノで新鮮味を感じる事が少なくなったからバイオリンやりたい気持ちが強くなったのかなと思いました。

ピアノをやり始めた頃は、また楽器が出来る事が嬉しくて新しい曲をやるたびに新鮮さを感じていたし、

先生にマル貰ったら「やったああああああああ!!!」と小学生の時より喜んでいました。


きっとバイオリンをはじめてもいつかは新鮮味を感じなくなって「バイオリンめんどくせー」って感じていたと思います。

どんなことも新鮮味がなくなってしまうのは避けられないので「しょうがない事」として淡々と練習していくしかないんですよね。

 

 

とりあえずレッスンに行けばモチベ上がるからちゃんと行こうと思う

 

救いだと思うのは、ピアノのレッスンがたのしいという事。

ピアノにマンネリを感じて練習がめんどくさいと思っても、レッスンが楽しくなかった事はなくて

1ヶ月レッスンに行かなかったとき、そのまま幽霊会員にならずに済んだのはレッスンでつまらない思いをしたことがなかったし、先生が優しい人だったから。

このまま行かないと先生が心配しちゃうなあと思って行こうと思ったし、行ってみたらやっぱ楽しくてモチベ爆上がりになりました。


私の場合、ピアノの練習がつまらなくて思うように練習が出来ていないときレッスンに行きたくなくなってしまい、

どんどんモチベが下がっていって練習量も減少して負のループに入ってしまっていたのですが

練習が思うようにできなくてもとりあえずレッスンには行こうと思いました。

こうなってしまったのはきっと元完璧主義の名残かなと思います。


毎回レッスンが楽しくなるよう工夫してくれている先生には感謝の言葉もありません。


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改めて運動はメンタルにいいと実感した←今後も100万回くらい実感するんだと思う

 

メンタルのケアに運動はかかせない


こんにちは、サオリです


今年5月あたりに調子を崩してジムに行かなくなってしまいました。

6月下旬頃からまたジムでトレーニングし始めたんですが、とにかくメンタルの調子がいい。

こんなに違うか!?ってくらい調子がいい。

ちなみに運動量はランニングマシンでウォーキングだけのときもあり、かなりゆるめ。

 

運動したらモヤモヤが消えた

 

ジムに行ってなかった月は無意識に過去のモヤモヤしたことを思い出して「やっぱりあれって許せないよなー」と思ったり、

未来の事を考えて不安になって家でダラダラ&ネットサーフィンしまくり、

趣味のピアノも練習するきがしない→練習時間が激減したからレッスンにも行く気がしなくって負のループに陥っていました。


でもジムでトレーニングすると過去のモヤモヤとかそういう事考えなくなるし、体がすっきりするからピアノの練習意欲も湧いてそこから練習時間がぐんと増えました。

なにこれ分かりやすすぎ!


ジムに行ってないときは「なんか最近だるいなー」くらいにしか思っていなくて自分が負のループに陥っていること自体気づいてなかったんですよね。

調子が戻ってから「メンタル結構落ちてたよな」って気が付くという…

モヤモヤしているときは久しぶりにカウンセリングでも受けてメンタルの整理でもしようかなと考えていたのですが

運動を再開してからは「まだいいか」と思うように。


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健康なメンタルには運動が必要不可欠

 

心の問題って本当に上げればきりがないと思います。

うつ病が治った今でも過去をさかのぼればモヤモヤすることはまだたくさんあるし、今も日常でモヤモヤすることはあります。


いちいちモヤモヤをきれいさっぱり解決しようと思ったら生活が困難になってしまうのである程度のスルー力は大事。

そのスルー力を鍛えるには運動。


昔は「気にしない」ってどうやるのかまじで疑問だったんですが、私の場合、心、メンタルの事に意識が向きすぎているときって必ず運動不足だったり、フィジカル面に問題があるときがほとんど。

健康なメンタルには心と体のバランスが大事って嫌になるほど実感してきたのについ忘れてしまうものですね。


一回の運動量は少なくてもなるべくこまめにジムに行こうと思いました。


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見栄っ張り、気にしいな私の服を買わないための考え方

 

着倒すまで着るのがモットー



こんにちは、サオリです

もともと私は見栄っ張りで気にしいのせいか、毎月たくさんの服を買っては着ない服を量産してきました。

今は定番服をアップデートするくらいで済んでいますが、ここまでくるのに役立った考え方を書いてみたいと思います。

 

その服が新しい服かどうかなんて他人には分からない

 

自分では気分よく新しい服を着ていてもその服が新しいかどうかなんて人には分からないんですよね。

母が古い服はみっともない!という価値観の人で、わたしもそれに影響されていたので新しい服=良い!と思っていました。

でもそもそも古いかどうかなんて自分しか分からないことです。


街を歩いている人の着ている服がいつ買ったものかなんて分からないですよね。


昔、人目を気にしすぎていて「新しい服を着ていないとダサいと思われる」と思っていた時期があり、毎月のように服を買っていたのですが

私の着ていた服なんて毎月雑誌をチェックしているオシャレに敏感な人たちでない限り分からないものだったし


そもそも似合ってなかったのでそれこそダサい人と思われていたかもしれません。



それに服って何回着ても全然劣化しないんですよね。

部屋着で着ている綿のTシャツでさえガンガン乾燥機かけてるのに多少くたっとしたくらいで古くなった印象がありません。4枚着まわしていて2年目になるのに!

ポリエステルの服なんて尚更です。


トレンドど真ん中のアイテムでない限り古さなんて人には分からないと気が付くと、新しい服にこだわることはなくなります。

 

 

トレンド好きでもその感覚を共有できなかったら意味がない


トレンドの服が大好きでその服を着る事によって謎の優越感を感じているときがあったのですが、よくトレンドに興味のない妹から「何それダサい」と言われることがありました。

その時は「妹はトレンドが分かっていないから、目が肥えていないからダサく感じているんだ」と思っていたのですが

服に興味のない人の視点ってかなり重要です。


だって世の中には服やトレンドに興味のない人がたくさんいるから。



誰にでも「その服を着る目的」があります。


例えば私が「彼氏に可愛いと思ってもらいたい」と思っているとします。


でもいくらトレンドで自分がかわいいと思っている服を着たとしても彼氏に可愛いと思ってもらえなかったら意味がないんですよね。


むしろ彼氏が理解できないトレンドのせいで良くない印象になってしまう事だってあり得ます。

(赤ちゃんみたいなフリフリのビッグカラーブラウスやお腹が見えて目のやり場に困るクロップドトップスコーデとか)


大事なのは目的です。

その目的によっては服に興味のない人の視点も考慮するのが大切です。


昔の私は妹にとっていつも変な服を着ているダサい姉でしかありませんでした。


オシャレの概念を変えるとポンポン買わなくなる


昔はオシャレとは流行を取り入れたいろんなパターンのコーデが出来る人がオシャレと思っていましたが、

素敵な人はスタイルが固定化されていることに気が付いて、オシャレの概念が変わりました。

素敵な人を見ると「流行っているから」「なんとなく可愛かったから」で服を選んできたスタイルのない自分が恥ずかしくなってしまったんですよね。


昔テイラースウィフトが「未来の自分が今の自分のスタイルを見ても恥ずかしくないような服装をしたい」的なことを言っていてとても印象的だったのを覚えています。

その時の私は1年前の自分でさえ古臭く感じていたのでどんだけトレンド追いかけてたんだよって思います。


若いころはいろんな服を試してなんぼなところがあるのでしょうがなかったですが、私はもうアラサー。

トレンドはもう一通り経験したので毎年、毎日違うテイストの自分になるのはもうおしまい。


自分のスタイルを作ってとことんこだわるとそもそも自分に合った服を見つけるのが難しくなるので服もポンポン買えなくなります。

 

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着る服をころころ変えるデメリットというものがある


新しい服を着てオシャレするのがたのしかった頃、デメリットは感じていなかったのですが(お金がかかるくらい)25くらいでそういうオシャレのやり方のデメリットに気が付きました。

それはマネーリテラシーの低いヤツだって思われる可能性があること。


自分は着ている服がいつも違う、オシャレしている男性に対して「お金かかりそう」と思っていたのになぜか自分はそう思われている可能性があるって思わなかったんですよね…。


この年齢で高所得者なんて一握りなので相手は「あの人は高収入なんだろうな」という発想にはならないと思います。

結婚適齢期になったらむしろ同じ服を何回も着続けた方が印象の良い場合もあり、新しい服を買うのも抑えられるようになります。

 


ヘアメイクの専門学校に通っていた時、コスメが大好きで毎月山のようにコスメを買っていたのですが、買うたびに「また買ったの!?」と友達に言われていました。


きっと金遣いの荒いヤツと思われていたのかもしれません…。

 

ちょうどいいオシャレは人それぞれ違う


職場や街でオシャレな人を見ると途端に羨ましくなってしまう事ってありませんか。

わたしはしょっちゅうありました。

しかしそういった人たちみたいになろうとしても、買った服に満足することはないんです。


なぜなら自分軸で選んだ服ではないからです。


人はそれぞれ体質や住んでいる環境、生活スタイルが違うのでオシャレよりもまず快適性を優先しなければいけないことがあります。

誰もがファッショナブルな恰好で毎日快適に過ごすことはできないんですよね。


快適性とオシャレを両立することは出来ますが、難易度はかなり高いので私含めほとんどの人はどちらかに偏ってしまうと思います。

当たり前の事なのに私はこのことに長い間気が付くことが出来ませんでした。


例えば私の場合はトップスにポリエステルの服を着るのが苦手です。

足の幅が左右で違うのでハイヒールは履けません。

それなのにも関わらず無理してポリエステルのザラザラとした触り心地のレースブラウスを買ったり、

ハイヒールを痛い思いをしながら履いていました。


不快に感じるワードローブばかり持っていたのでいつまでたっても自分のクローゼットに満足することはありませんでした。


「ちょうどいいオシャレは人それぞれ違う」と意識するとオシャレな人を見ても自分を惨めに感じる事はなくなるし、

自分にとってちょうどいいオシャレを見つけられるようになります。


正直、着られる服の選択肢が広い人をみると羨ましく感じますが、ようやく「人は人」と考えられるようになったと思います。


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なぜ手持ち服に満足できないのか。自分を幸せにする服装は必ずしもオシャレというわけではない。

 

なぜ手持ち服に満足できないのか。自分を幸せにする服装は必ずしもオシャレというわけではない。

 

もう服をとっかえひっかえするのは終わり


こんにちは、サオリです


前にふと思ったこと。

それは「自分を幸せにする服装は必ずしもオシャレというわけではない」ということ。

 

オシャレになれれば幸せになれる?


私は長い事服について悩んできてオシャレになれれば幸せになると思っていたのですがそうじゃなかったんですよね。


昔イメコンを受けて前よりはるかにオシャレで洗練されて見えるようになったとき、嬉しかったけど満足はしませんでした。

なぜかずっとモヤモヤしていて「もっとオシャレになったら満足するに違いない」と服を買いまくる日々。

しかし買っても買っても不足感しか感じず、素敵な人と比べては自分に落胆し、あの人と自分は一体何が違うのか考える日々でした。

 

 

他人軸で選んだ服では永遠に満足できない


今なら分かるのですがそれは他人軸で服を選んでいたからです。


他人軸で選んだ服は自分で買ったものでもそれは他人の服。

それは自分の服ではありません。

自分の服じゃないんだからそりゃあ満足するわけがないですよね。

不足感を感じて当然です。


私はうつ病だったときにカウンセリングでそれまでどれほど自分が他人の考えに振り回されてきたか思い知らされました。

服についてもそう。

ファッション情報の「○○はダサい」「マストバイアイテム」などのワードに振り回され、

言う事を聞かなければ社会で生活していけないと思っていたと言っても大げさではないかもしれません。


自分軸で服を選ぼうと決心し、あらゆるファッション情報から一旦離れてみてから気づいたのは、それまで毎日履いていたスキニージーンズが好きじゃないってこと。

そんなことにも気づかなかったのは、それだけ服選びが自分軸からずれていたからです。


素敵な人って着る服にその人のこだわりや、その服を着る必然性など、パーソナルな部分を感じるから素敵なんだと思います。

わたしがそれまでしていたのは素敵な人のコスプレ。

そこに自分の精神が宿っていないから満足することなく服をとっかえひっかえしていたんですよね。


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素敵な人=オシャレとは限らない


結局自分の納得するスタイルは着心地を優先させた服ばかりで、昔自分が「こうなったら満足するはず」と思い描いていたものとは遠く離れていました。

自分が心から満足するスタイリングに周りからうらやましがられるような服やバッグはいりませんでした。

昔から人一倍見た目を気にしてきたせいか、オシャレであることが優れているように思っていたし、素敵な人=オシャレだと思っていたのですが、

でも実際のところは素敵な人≠オシャレであって、素敵な人みんながみんなオシャレってわけではないんです。


自分を幸せにする服装は必ずしもオシャレというわけではありません。


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【服を大切に着たい】服が好きだからもっとちゃんと服の事を考えたい。

 

目指すはタイムレスなスタイル



こんにちは、サオリです

最近の興味関心は「服を大切に着る」ということ。


だいぶ前にファッションドキュメンタリー映画「ザ・トゥルー・コスト」の映画について書かれている動画や記事を読んで

服をポンポン買っては捨てるという行為が間接的に誰かを苦しめているという事を知り、とにかくショックを受けました。


映画は観てて辛い場面があるそうで、そういったものを観ると具合が悪くなってしまうので観れていないのですが

この映画のレビューを読んだだけでも、わたしはもっと服を大切にしないといけないと強く思いました。


私の好きなファッションで誰かが辛い思いをしているなんてすごく嫌だ。


今の私はというと自分のスタイルを確立したことによって服の失敗も減ったし、着なくなってしまった服はユニクロやザラのリサイクルボックスに入れるようにしています。

まだまだ着れるきれいな服はメルカリに出品したりと、平気で服をゴミとして捨ててしていた昔に比べだいぶエコになったと思います。

それでもやっぱり映画「ザ・トゥルー・コスト」に関心を持って、服の事を考えてしまうのはまだまだ服との向き合い方が雑だからだと思います。


着ない服はリサイクルに出せばいい、それで本当にいいのか

 

特にリサイクル。

リサイクルに出し始めた時は「自分はエコなことをしている」と思っていたのですがなんか違うよなって気持ちが湧き始めたんですよね。

布を裁断してミシンで一つ一つ縫製したりと服作りはまだまだアナログな世界。

作り手さんの事を考えると「リサイクルに出したからいいじゃん!」というのはなんか違う気がするんですよね。


自分が作り手側だったら自分が作った服がすぐにリサイクル行きなんてゴミとして捨てられることと同じくらい悲しいです。

作っているときに「今自分が作っている服のほとんどはすぐ捨てられるんだろうな」なんて作り手さんに思わせたくない。

だからリサイクルに出す服は着倒した服だけにしたいです。

 

メルカリで売りにくい服で冒険しない


とはいえ買い物に失敗は付き物です。

私が注意したいと思うのは、メルカリで売りにくい服で冒険しようとしないこと。


売りにくい服というのは洗濯するとくたっとしてしまうTシャツや薄手のニット類


私は春秋に着れる薄手のニットが自分の定番アイテムなのですが、何年か前の春に「たまには違う色が着たいなあ」と

ユニクロでそのときトレンドカラーだったパステルカラーのニットを数枚買いました。

それぞれ10回くらいは着たと思うのですが、秋になってしまうとパステルカラーを着る気分にはなれず。

翌年の春に着ようと思ったのですがトレンドカラーではなくなってしまったのと私にとって顔映りが良くない色だったので古臭い印象になってしまい、着なくなってしまいました。


薄手のニットは着るたびに洗うので少しずつ縮んでしまいます。

少しでも縮んでしまったものはメルカリでは基本売れないのでまだまだ着れるニットはリサイクルボックス行きになってしまいました。

ニット類では冒険しないようにしたいです。

 

リユース価値の高いものは値段が高くても長い目で見ればお得

 

今から9年前くらいにポールスミスのグレーのロングPコートを母に買ってもらったのですが、すごく気に入っていてその1着を5年間シーズン中ずっと着続けていていました。

値段は忘れてしまったのですがおそらく6万くらいで、着用回数で割ると1回あたりの値段は79円です。(5ヶ月×5年着用)

充分着てもまだまだ形も崩れず綺麗だったのでメルカリに出品したのですが、なんと2万円以上で売れ過去で一番得した買い物となりました。(買ったのは母だけど)


ポールスミスってレディースはすごく人気というわけではないので自分の思った以上の価格で売れてびっくりしたのですが、

タイムレスでベーシックな形のコートだったから売れたのかなと思いました。

それからはリユース価値も考えて服を購入するようになりました。リユース価値の低いものは着倒す前提で買う!)


リユース価値の高いものは金銭的にもお得だし、買い手側の人も着なくなってしまったら売ることが出来るので環境面にもいいですよね。

 

なるべく服を買わないために生活を充実させる

 

服を着倒すためにはやっぱり服を買わないことだと常々感じてます。

私がついつい買ってしまうときって、日々の生活に退屈してしまって服に刺激を求めてしまうとき。

そんな時はおしゃれはあくまでも生活をちょっとだけ幸せにする手段なのに目的になってしまってます。

よく物を買っても幸せにはなれないと聞きますが、本当そうだなあと思っていて、

ずっと欲しいなと思ってたジャケットを買っても高揚感は一時的なものでまたしばらくすると別の服に興味が移ってしまう事はよくあることです。

服を買っても生活ががらりと変わるわけではありません。


欲しくなってしまったときは服から意識を逸らして趣味に没頭するなど、生活を充実させることを意識したいです。



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「服はたくさんあるのに着る服がない」←なんでこんなことが起こっていたのか

 

着る服がないんじゃなくて「着たい服がない」んだってやましたひでこさんが言っててそうだなーって思った。


こんにちは、サオリです


服はたくさんあるのに着る服がない…こんなことを思ったことがある人はきっと少なくないはずです。

私も過去にこれに悩まされていて、着ない服をたくさん買っては膨大な量を無駄にしてきました。

しかし今は着ない服は圧倒的に少く、結構買い物上手になったと思っています。


今日はなんで過去に「服はたくさんあるのに着る服がない」という事が起こっていたのか、振り返ってみたいと思います。

 

 

生活スタイルに合っていない服ばかり持っていたから

 

田畑の多い田舎に住んでいたのにもかかわらず、手持ちの服のほとんどがシフォンのミニワンピースなどの都会で着るような「お出かけ着!!!」という服ばかりだったので地元では着る事が出来ませんでした。

なので服を買いに都会(と言っても地方都市)に行くときにしか着れなくて「服を買いに行くための服」化してました。


しかも東北に住んでいたので中に重ね着できないシフォンワンピを着られる季節は少しだけ。

この時は手持ちの服のほとんどが一人ファッションショー用の衣装になっておりました…。


都会に住んでいたらたくさん着たのかというとそうでもなく、実際東京で一人暮らししていると家事全般をこなさないといけなくなったため、動きにくいスカートとかワンピースなんて着ていられなくなりました。

実家にいるときの方が家事は母任せだったので優雅な生活してたなと思います。スーパーの袋なんて持つことなかったし。


自分はパンツ派と自覚するようになってからはパンツに合う服を買うようになったため、どんどん着れる服が増えていきました。


スカートとかいいなーと思うんですけど、やっぱり普段は履かないので買うときはお出かけ用(見た目重視したいとき)と割り切って買っています。

 

 

自分の好みをガン無視して流行ばかり追いかけていたから

 

今までの記事にも書いているのですが、完全に雑誌の奴隷になっていて雑誌で推していた服ばかりを買っていました。


デザインが特徴的なものが多く、その雑誌を読んでいる人なら「○○の服だ!」と分かるような服だったため、

シーズンが過ぎると着るのが恥ずかしくなってしまい、ワンシーズンでお蔵入りになっていました。


しかもポリエステルの服とか下着が見えそうなミニワンピースなんて正直着心地が好きじゃないのに「雑誌に載っていてかわいかったから」という理由だけで買っていました。


その服を持っていてテンションは上がっていたのですが、でも実際着るとなると着心地が悪いから選択肢からはずれ、

着れる服が惰性で買った綿のカーディガンしかない、なんてことになってました。

いくらデザインが良くても着心地が悪いと着なくなりますね。


しかも頭のてっぺんからつま先までトレンドで固めていたため、トレンドが過ぎると一瞬で手持ち服のすべてがダサく感じ「着る服がない」なんてことになっていました。


これはいろんな服をたくさん試着し、トップスはシンプルな方がすき、パンツはスラックスがすきなどと自分の好みが分かってきてベーシックアイテムが固定化されてから安易に流行に流されなくなりました。

 

永遠に訪れない理想のシチュエーション用に服を買っていたから

 

雑誌でモデルが都会の街中でデートしているシチュエーションやオシャレなレストランで食事しているシチュエーションなどよく見かけますが

私は「そんなシチュエーションが私にも訪れるかもしれない、そんな時用のために」と服を買っていました。

可愛いけど絶対着ないだろって服も「○○の時に着たら素敵かも!」と妄想を繰り広げ、永遠に訪れないシチュエーションのために散財していました。


妄想と言えば、その時は観劇が趣味だったのでそのシチュエーションを妄想しワンピースを買っていたのですが

今は行かなくなってしまったし、趣味で行っていた頃も数か月に一回とかだったので、もし観劇の趣味が復活したとしたら何回も着たいと思えるワンピースを買いたいです。


今はこの服を買ったら明日から着るかどうかで判断するようにしています。

でもアウターとかはシーズン前に買わないと売り切れてしまう可能性もあるため、その時は返品可能な通販サイトで一度購入し、手持ちの服とコーデしやすいか家でじっくり吟味してから決めます。


いらない服を手放すときに一番つらかったのはこのシチュエーションを妄想して買った服たち。

「今の自分のライフスタイルではこんなシチュエーションは起こりえないんだ」と現実と向き合うのが辛かったです。


でも妄想で買った服って目にするたびに着ていない罪悪感を感じるし、自分のライフスタイルに合う服をちょっとランクアップしてガンガン着る方が満足度が高いです。

今年の春イエナで上質なアウター買ったら素敵すぎて毎日着るたび幸せすぎたので間違いないです。


合言葉はこれ→現実を幸せに生きようぜ。

 

 

人にどう思われるか、他人軸で服を買っていたから

 

流行の服を着ていないと、服のバリエーションがないと人からダサく思われてしまうという考えがあって、そう思われないためにもポンポンと服を買っていました。

この頃は似合っていなくても流行の服を着ていたら正解だと本気で思っていました。


でもヘアメイクの世界にいた時、洗練されている人はだいたい同じ服でキャラクターが固定化されている事に気が付いてからはそんな考え方はなくなりました。


オシャレを考える職業の人が同じような服を着ているってかなり衝撃的だったし、説得力あるなーと思いました。

そういう方たちを見て逆にブレまくっている自分が恥ずかしくなりました。


まあそこからは自分のスタイルを確立するためにまた服をたくさん買い散財してしまったのですが、今は服のパターン化に成功しています。


それと数年前に体を壊してしまい、少しでもストレスの感じる服は一切着れなくなった時にいくら流行っていてもそれが着れる人と着れない人がいるという事を実感して人の目も気にならなくなりました。

肌が弱くて天然素材じゃないと着れない人、小さい子供がいてスニーカーしか履けない人。

ひとはいろいろ。


必要な服は一人ひとり違います。