こんにちは、サオリです
今日はオシャレをする罪悪感について。
私がファッションに興味を持ち始めたのと同時に持ってしまった罪悪感。
母に服を買ってもらって新しい服に高揚感を感じつつも罪悪感を感じていました。
嬉しいはずなのに何で心が重く感じるのか謎だったのですが、今なら分かります。
それは母親のコンプレックスを感じていたから。
オシャレをしたときの母のリアクションで罪悪感が生まれた
「服が欲しい」と言ったり、服を買ってもらうたびに、母が「人は見た目じゃない」と何回も何回も言うんですよ。
それから新しい服を着ると好奇の目で頭のてっぺんからつま先まで目線でスキャンするみたいにじろじろ見て着たり。
ほんと嫌だった。
高校生の時初めてメイクをした時もそう。
私が母の運転で車の後部座席に乗っているとき、バッグミラーでじろじろ見てきて「あまり塗りすぎはだめよ」と言ったのがなんだか持ち悪かったです。
「人は見た目じゃない」って言われるたびに遠回しに「おしゃれをする奴は見た目だけの中身ペラペラのやつ」って言われているみたいだったし、
「自分のファッションが好きなのはただ見栄を張りたいだけなのかな…?」と好きな気持ちを素直に肯定出来ませんでした。
好きな気持ちに疑いを持つってめっちゃ辛い。
母の前だと自分がなにかおかしなことをしているピエロみたいな感覚だったんですよね。
「あたしなんかおかしいの?」って感じ。
母親のコンプレックスとそれを刺激する私
私の母親は母子家庭育ちで4人きょうだいの3女だったから、いつもおさがりの穴の開いた服を着ていて友達に馬鹿にされていたってエピソードを聞かされていたんだけど、
そんな経験から自分の娘には惨めな思いをさせたくないって気持ちがあって、最低限の服は買ってもらえたんだけど
(でも服を買ってもらうたびに貧乏エピソード聞かされていたから、気持ちよく着れない…)
でもそれ以上の“おしゃれ”を求めると途端に母がイラ立つんですよ。
雑貨屋さんでネックレスを欲しがったり、雑誌に掲載されているちょっと高い服を欲しがると気持ちを踏みにじられるの。
今でも忘れない。
雑誌掲載の服が欲しいと雑誌を見せると、「ターコイズブルーが爽やかなパーカーは春のお出かけにぴったり☆」と雑誌の説明文を読み上げて「はぁ!?」ってすっごいバカにした感じで言うの。
これやられるとね、自分が雑誌のうたい文句にまんまと載せられているアホに感じられさせて羞恥心を掻き立てられるから本当に嫌だった。
欲しがるたびに不機嫌。
母は「お金が~」とか「子供服はすぐに着れなくなっちゃうから」とごもっともなことを言っていたけれど、それ以上に母のコンプレックスが刺激されているのが子供から見ても分かるくらいに。
あれだけ自分の子供時代のコンプレックスの事話すんだからそりゃあね。
多分母は子供の頃、欲しいものがあっても買ってもらえないのは分かりきっているから「欲しい」すら言えなかったんだと思う。
それに比べ私が「欲しい、欲しい」と素直に言っていたのが羨ましかったんだと思う。
イオンくらいの服なら母の子供時代の満たされなかった心を自分の子供に着せてあげる事で満たされていたんだけど
それ以上は母にとってとんでもない事だった。
母は自分におしゃれを許可できなかったんだと思う。
私の想像だけど、友達から穴の開いた服をバカにされて高校の時は自分で上手く整えられない癖毛をバカにされていたらしい。ぼさぼさ頭で学校に行っていたそうな。
そんな自分がオシャレしていいの?みたいな。(私の妄想だけど)
よくネットでも胴長短足だけど、ブスだけどおしゃれしていいの?みたいなの見るじゃん?たぶんそんな感じ。
人のコンプレックスに付き合ってわざわざ不幸にならなくていい
罪悪感がなくなったのは、私が20歳くらいの頃からセレクトショップに行くようになってからだと思う。
母に似合いそうな服がたくさんあって、私がいろんな服を勧めるたびに少しずつおしゃれに目覚めた母はようやくオシャレを許可できるようになった。
そうして私のオシャレへの罪悪感もなくなっていった。
それまでは自分がオシャレをすると母のコンプレックスが刺激されて辛い…ってなってた。(自覚はなかったけど)
でもこれって母の個人的なコンプレックスに付き合って自分の気持ちを抑えている状態。
いや、ないないないないないないないない。
なんで母親の気持ちに付き合って自分の好きな事で心重くならないといけないのよ。
なんで自ら不幸を感じないといけないのよ。
母親のコンプレックスを何で自分も背負わないといけないんだ。
それってあなたの問題ですよねえ?
幸せな人が一人でも多くいた方が世界が平和になるに決まっている。
自分の気持ちを抑えて生き続けている人は結局他人を攻撃していろんな人を不幸にしているのだから。
と当時の自分に言いたい。