こんにちは、サオリです
ファッションの掲示板あるあるで、「このコーデおしゃれ!」という投稿に対して「ブスじゃん」とまったく噛み合わないコメントがつくことがあります。
このやりとりをいつも見て思ってたのはなんかよく分からんけど何か大きな溝があるということ。
言語化が苦手なのでよく分からずなんだろうと思っていたのですが、ある日MBさんの「おしゃれな人がかっこいいわけではない」という動画を見て、これじゃんって思った↓
女で言うなら「おしゃれなひとが可愛い(美人)ってわけではない」ってこと。
掲示板でよく荒れるのは、まさにこの違いが原因だったんだと気づいて、スキーリ(・∀・)☆彡
- 「可愛い」って曖昧すぎんのよ
- 容姿に悩んでるなら“かわいい”じゃなくて“おしゃれ”を目指せ
- かわいいとおしゃれ、それぞれにある他人軸と自分軸
- 可愛い服がしっくりこなかったのって…
- 服と人生てリンクしてると思う
「可愛い」って曖昧すぎんのよ
街で見かけた人、服屋のディスプレイを見て「可愛い!」って反射的に言うこと、よくありますよね。(大人になると若いころと比べそれほど多用しないと思うが)
でもこの“可愛い”って、おしゃれなのか、顔が可愛いのか、雰囲気が可愛いのか…すごく曖昧。
女って、この「可愛い」に全部をごちゃまぜにして感想を言う事が多いから、
そのせいで、“可愛くなりたい”のか、“おしゃれになりたい”のか、見失ってしまう。
私自身も、この二つをごちゃ混ぜにしていたせいで、自分のファッションの方向性を見失っていました。
ずっと、“可愛い=おしゃれ”だと思ってた。
例えば日本独自のファッションや、海外スナップを見て「可愛い」と思っていたけれど、その2つは全く別物。
なのに、「可愛い」という言葉に全部が一緒くたにされていたんだと思います。
もちろん、可愛い格好がオシャレじゃないと言いたいわけではありません。
同じような服装でも、かわいくなりたくて着ている人と、おしゃれになりたくて着ている人では全く違う。
容姿に悩んでるなら“かわいい”じゃなくて“おしゃれ”を目指せ
「ブスがおしゃれしても無駄」という書き込みを昔からよく見るけど、 それは「可愛さ」を目指しているからこその発想だと思う。
そういうふうに考える人は、「可愛くなれないなら意味がない」と感じてしまっている。
でも逆に、容姿に関係なくファッションを楽しんでいる人は、「おしゃれになりたい人」なんだと思う。
もし自分の容姿に悩んでいて、「何をしたって自分は可愛くなれない」と思っているなら、ぜひ“おしゃれ”を目指してみてほしい。
おしゃれは、容姿に関係なく楽しめるものだから。
そして不思議なことに、おしゃれになると、なぜか「おしゃれな顔」に見えてきたりする。
最初は誰でも、「顔が整っている=おしゃれに見える」と思ってしまうかもしれないけれど、その感覚から離れるには、ある程度センスが育たないと分からないものかもしれない。
私も昔は、美人=おしゃれだと思っていて、かわいい芸能人はどんな服を着ていようがおしゃれだと思ってた。
だからかわいい顔をした芸能人の私服写真がネットでダサいと言われているのを見て、それが全然わからなかった。
まあ、顔が整っていればおしゃれに見えやすいのは事実だけど、今では、たとえ容姿が整っていなくても「この人オシャレだな」と思えるようになった。
だから少しは、自分の中の感性が育ってきたのかもしれない。
かわいいとおしゃれ、それぞれにある他人軸と自分軸
それで思ったんだけど、それぞれに「他人軸」と「自分軸」があるように思う。
他人から可愛いと思われたい人。他人からおしゃれと思われたい人。
そして、自分にとって可愛い・おしゃれを探求する人。
よく「かわいい服を着てる人はモテ狙い」とかいう人いるけど、それに対して「自己満で着てるだけなのに」という人いるよね。
それは他人軸と自分軸の違いなのかも。
私はかつてスナイデル系の服を「すごくおしゃれ」だと思ってたんだけど、25歳ごろからなぜかそう感じなくなってきた。
当時は「自分の目が肥えたから」だと思っていましたが、かわいい服でもモードでモダンで洗練されたものはあります。
だから単に「かわいい服=おしゃれじゃない」とは言い切れない。
でも今回のブログを書いてて、かわいい服がおしゃれに思えなくなってしまったのは、
可愛い服があまりにもモテ服と結びついているからなんじゃないかって思ったり。
可愛い服がしっくりこなかったのって…
昔の私は、「おしゃれになりたい」と思って、スナイデルなどのフェミニンな服を「おしゃれ」だと思って着ていました。 でも、どこかしっくりこなかった。
それは今まで、コンプレックスの裏返しだと思っていたんだけれど、改めて考えてみたら、
「自分はおしゃれになりたいと思って着ているのに、周りから“男ウケ狙い”と思われるのが嫌だった」のかもしれない。
そんなことは気にせずに好きな服を着ればいい──というのは正論だけれど、社会の中で生きる限り、「どう見られるか」を意識することは自然なこと。
それは決して悪いことじゃない。
だから、あのままフェミニンな服を着続けることはすごく居心地が悪かったと思う。
スナイデルみたいなフェミニンな服が好きな一方で、海外スナップのような服にも憧れていて、自分がよく分からなかった。
それはやっぱり、自分が「可愛くなりたい」のか「おしゃれになりたい」のか、よくわからなかったからなんだと思う。
今思えば、あの時期は「人にどう見られたいか」から、「自分がどうありたいか」への転換期だったのだと思う。
服と人生てリンクしてると思う
今までファッションについて考えてきたけどやっぱりファッションて、ファッションだけに収まらないと思う。
着る服を通して、自分の輪郭がはっきりしていく。
例えば、ある服を着た時に「あれ、なんかしっくりこない。何でだろう…?」って考えるたびに自分の内面と向き合う事になる。
それは“可愛さ”や“オシャレさ”を越えて、自分との関係を深めていく過程。
私のファッションの選び方は、いつも「どう見られたいか」よりも、「自分はこうありたい」のほうが強い。
たとえばその比率は、2:8くらい。
それでその比率は、私の生き方そのものにも重なっているように思う。
「人からどう見られるか」も気になるけれど、やっぱり最後は「自分が納得できるか」で決めたい。
もし生き方に迷ったら服にきいてみるといい。
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