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ファッションとメンタルと4毒抜き

あのときのこと。東日本大震災 【第7話】恐怖が認知を歪ませる

前回の続き



あの年は震災から〇ヵ月が経ちましたって1ヵ月毎にニュースで報道してたっけ。

その時は正直震災関連のニュースには飽き飽きしていたと思うし、見るのが嫌だった。

岩手や宮城の状況が映されると福島は危険だから誰も来たがらねーよなって卑屈になってたし、原発関連の問題を報道されても自分たちは汚染されてるんだって思えてくるから。


とくに震災で発生した福島県のがれきの処理問題のニュースは見ていて辛かった。

受け入れを検討している県外の市町村の地域住民から反対の声が上がっている…とニュースで報道されると、地域住民の人たちの嫌だって気持ちも分かる反面、私たちはみんなが危ないと思っているところに住んでるんですけど…って思ったし、

自分たちは人から嫌悪される対象って思った。



わたしのそのときの認知の歪みもなかなかだけど、世間の認知の歪みもひどかったように思う。

そのときツイッターに、住んでる地域によって危険だと思ってる場所って違うよねと投稿されてるのを見た。

福島県の人は福島第一原発周辺が危険だと思ってる
福島以外の東北と関東の人は福島県すべてが危険だと思ってる
関西の人は東北すべてが危険だと思ってる
海外の人は日本すべてが危険だと思ってる

危険だと思われてるところが赤塗りされている画像を見たんだけど、本当にそうだなって思った。

当時私がおかしいと思ったのは、放射能は県境を認識することなく広がっていたというのに福島県だけが危険と思われていた事。

東日本における土壌汚染 2011年→2020年 | ふくしまミエルカPROJECT
例えばこちら↑に掲載されている2011年3月時点での放射線測定マップを見ると、福島県だけではなく、北関東の一部でも高い数値が確認されてる。

にもかかわらず福島県だけが危険という認識をされ、高い線量が測定されている県外の一部地域についてはまったく触れられないのは当時かなり疑問だった。

ちなみにこの表もやっかいで、これは空気が汚染されていると勘違いする人がいるのですが、これは「土壌にどれくらい放射性物質があるか」であって、「空気中の放射線」とは別。

だから赤いからと言って住むな危険ってわけじゃない。

とくに人が住んでるところは優先的に除染作業が行われた。

でも赤くなっているところを見て人は空気もなにもかも汚染されてるんだって思うし、私も当時はそう思ってた。


放射能というよくわからないものや、よく分からない表、ネットに散乱する風評被害やデマで原発になると感情的になる被災者は少なくない。

震災からしばらく経って東京電力の説明会に母と妹が参加したとき(私は行けなかったんだよね)

説明会中感情的になった方がいたらしく、東京電力の方はひたすら謝って、話が進まない場面もあったらしい。

この事故が起きてから農業関係者の方が複数人〇殺しているのですが、とくにガソリンをかぶって〇殺をした方のニュースが流れた時はかなり衝撃的で本当につらかった。

だって、この事故がなければその人たちは〇んでなかったかもしれないんだから。


福島市には街中に放射線測定量を計る機械が設置されていて、車の中からいまどれくらいか把握することが出来たんだけど、それもあって、何年たっても「原発」や「放射線」が頭の片隅に残る生活をしていた。


続く。


 

 

【1話から↓】

あのときのこと。東日本大震災【第6話】あたしは汚染された人間なんだ

前回の続き。

 


神奈川での生活が慣れてきた頃、風呂上りにテレビを見てたら片方の足の脛全体が真っ黄色になっていることに気が付いてびっくりした。

たぶん震災のとき、がれきで打撲したんだろう。

アドレナリンが出まくって、その後も自分の事に気を使っている余裕なんてなかったってことなんだと思う。


神奈川の親戚の家では約1ヵ月お世話になった。

母の仕事がひと段落して、やっと母が戻ってきたあたりでこれ以上ご厄介になるわけにはいかないと神奈川で家を借りて、

しばらくした後に両親の仕事や妹の学校のこともあり福島市に住むことになった。


福島市に住み始めてから本当に日常が始まったって感じがした。

両親の職場は津波の被害は受けていないし、原発からも離れているため働き始めた。

妹も、前に通っていた高校で一番仲良くしていた子が福島市の高校に行くっていうんで、同じところに転入した。


私もバイトしたいなーって思ってたから面接にいったらその場で採用してもらった。

めでたしめでたし!!

といいたいところなんだけど、実際のところは違いましてね。


バイト先のカフェではみんなよくしてくれて、高校中退してからはコンビニでバイトしていてもずっと自分の居場所がないって思っていたから、いるべき場所ができたって感じて嬉しかった。

でもお店に県外から来たと思われるサラリーマンから「ここのコーヒー本当に飲んで大丈夫なの?」と言われた事がある。

不安なら飲まなきゃいいじゃん。

自分で全部飲み物食べ物用意して来いよって。

福島に住んでる私らはどうなんだよって思った。


そのカフェで働いてる間3人くらいに言われた事ありましてね。「安全なの?」って。

あるひとははっきり「放射能とか大丈夫なの?」ってはっきり言ってきた。

言われるたびに自分が汚染されてるって言われてるみたいでどうにかなりそうだった。


しかも2chを見てしまった。

私がバイトしてたカフェの悪口が書かれたスレを見てしまって。

原子炉でコーヒーを温めてるんじゃないかって書かれてた。


その日の夜泣いた。

親にばれないように、布団かぶって。

客に「安全なの?」って言われた日も。

こんなことが起きなければこんなに傷つくことはなかったのに

どうにかなりそうだった

あたしは汚染された人間なんだ

被ばくした人間なんだ


将来結婚できないんだ

結婚できても奇形児生むとか言われるんだ

白血病になるんだ


被災して県内に避難した子が学校で原発の事でいじめられるニュースをみた

県内でも差別される対象なんだって思った


上京したいと思ってたけど福島出身ってばれたらきっとばい菌みたいなあつかいされるって本気で思った


家では、震災の時は私が死んだと思って泣いた母も態度が冷たい。

しょうがない。

家事は基本的に母が全部やってたし、通勤時間も90分に増えたし、仕事も管理職だったし、お金のかかることばかりだし、妹の高校の編入の手続きに受験のこと、震災関連の事務手続き、今後の事…

父はなにも手伝っていなかったからすべて母に集中してたし、

私はフリーターだったからもう構わなくていい。


でもその冷たい態度が震災前にも感じてた「自分は出来損ないで、母にとってどうでもいい存在、なんなら消えていなくなればいいと思ってるに違いない」って気持ちがぶわっと湧き出てきたんだよな。


引っ越すときに家具をそろえるために家具屋に行った時、これが欲しいと言ったら「自分で買え」と言われてしまい

まあフリーターだし、当然と言えば当然だけど、でもあまりにも妹との扱いが違くてそのとき妹は投資対象で、でもあたしはまだ家に寄生してる迷惑なやつなんだなって思った。


震災があってしばらくは環境が目まぐるしく変わって、それまでの自分のことを忘れていたけど、ああ、あたし震災の前って病んでたんだよなって思い出した。


続く。

 

 

【1話から↓】

あのときのこと。東日本大震災【第5話】神奈川での居候生活

前回の続き。




避難所生活5日目くらいに、父から突然神奈川の親戚の家に行くぞと言われた。

そんな親戚いたっけ…ああ、小学生の頃1度だけ遊びに来たあの人たちか。

でもガソリンは?

と父親に聞いたら職場の車から少し分けてもらったらしい。


避難所を出発すると、たくさんの県外ナンバーの消防車が走っているのをみた。

これから消防車のモーターショー開催されるのかよってくらいにたくさん見た。

自衛隊のトラックも。


避難所ではTVの前は毎日人でごった返してるし、ケータイもないからTVはほとんど観てなくて、どんな風に報道されているのか分からなかった。

自分がどれくらい大きな災害に巻き込まれているのか、アレが爆発してもまだよく実感してなかったと思う。

でも福島から遠く離れた県外ナンバーの消防車と自衛隊のトラックが次々と通るのを見て規模のおおきさを実感した。



神奈川の親戚の家につくと、すごく歓迎してくれた。

顔中吹き出物だらけで、髪もプリンすごかったから正直恥ずかしかった。

サイズわかんなかったから適当に買ってきたんだけど…と大きいユニクロの袋を手渡してくれて、中にはTシャツやら服がたくさん入っててうれしかったな。


親戚は古いアパートを経営していて、1階と2階の一室が親戚の住居になってた。

その1階にある仏壇のある部屋に居候させてもらう事になった。


どういう関係なのか改めて聞いたらじーちゃんの兄弟つながりらしい。

じーちゃん7人兄弟だからな。

じーちゃんの弟とその奥さんはもう亡くなっていて、その家には父親のいとこ2人といとこの旦那さん、その子供2人が住んでた。


子供が小学生と中1の男の子だったんだけど、とくに長男が人懐っこくてある朝「おねえちゃ~ん(´▽`)」と寝起きざまに抱き着いてきて嫌ではないが思春期仕事しろ!って思った。

小学生の次男は、私が風呂上りに足パカエクササイズしてたらなにやら女性のプライベートな時間を覗いてしまったと思ってか、照れてた。

ある日親戚の人が、「おねーちゃんと同じシャンプー使った!おなじ匂い(´▽`)」って喜んでたよ~wと言ってきて

この2人のおかげで居候生活が居心地のいいものになったと思う。


その親戚の家での居候生活は居心地がよくて、本当に感謝でしかない。

普通、親戚とはいえ、部屋が余っているとはいえ、いとこの家族がしばらく居候ってなったら躊躇するって。

毎日ご飯準備してくれるし。

あたしそのときなんで手伝わなかったんだろうって今となっては思う。

食事の準備3人分増えるんだぞ!?!?

あたしあまえすぎやろ…



生活の中では親戚が父親のことを○○にーちゃんって呼んでいて、ちょっと衝撃で妹と爆笑した。

父親は昔から無口でなにもしゃべらないから、そんな風に呼ばれてたなんて。

親戚から昔私の家が、蚕やヤギを飼ってたことを聞いて父親が昔どんな環境で生活してきたのか知るきっかけになった。

この居候生活を通して父親の意外な一面を知ったり、父親と過ごす時間が増えたのはいい機会だったのかもしれないと今となっては思う。



神奈川での生活はなんだか不思議だった。

ついこの前津波に飲まれて、避難所で雑魚寝して、毎日菓子パン食べて…って生活だったのに

毎日みんなとわいわいご飯食べて、テレビ見て、布団で寝る。

外に出たらみんな普通に生活してる。


ショッピングセンターの中のスタバでフラペチーノを飲んでるとき、罪悪感感じたっけ。

街では募金活動してる人がたくさんいて、親戚の人と街を歩いてるとき、募金の人があまりにも熱心に呼びかけるもんで私が困っていたら、親戚の人が「この子被災者なんです…」って言って募金の人にすごく謝られた…


そのときああ、あたし被災者なんだって思ったし、かわいそうな人間なのかなっても思ったし、もしこの人たちがあたしが福島の人間だって知ったらどういう反応するんだろうってそれだけが怖かったな。


周りに被災者だってバレたくなかった。



続く。

 



【1話から↓】

あのときのこと。東日本大震災【第4話】避難所で菓子パン生活

前回の続き



福島市の避難所に行った。

結構おおきめのところ。

母親は介護職で現場の対応に追われていたからいなかった。

避難所についたら入口にホワイトボードが置かれていて、避難人数〇人って書かれてた。

私がいったときは避難人数も少なかったから、カーペットが敷かれている小さめの会議室のようなところに入れてラッキーだった。

3月の福島はまだ寒い。


やることがなくて施設の中を散策していると、中学のころの同級生と再会してそれは嬉しかった。

あたしが高校中退したの知らないだろうし…けっこういい子だったから…。

雰囲気全然変わってなくてなんだか安心した。


避難した当日はお弁当を作って持っていたから食べる者には困らなかった。

でもその日にもらった避難所の支援物資は饅頭1こだった。

たぶん支援物資っていうより、たまたまその施設にあった誰かがもらった饅頭をとりあえず避難してる人に配ろう…ってかんじだった。


初めての避難所生活の1日目の夜は、いびきのすごいおじいちゃんがいて「ガァ~~ガっ!!ングゥア~~」って変ないびきで部屋の中で何人かクスクス笑ってる人がいた。

それで全然寝れず、あと枕がないのも結構きつかったな。毛布もないし。


ちなみにそのおじいちゃんの家族の方が、「アンタ昨日笑ってたでしょ!」と捨て台詞を吐いて翌日出て行ったらしい。

いやあれは初めて聴いたら笑ってしまうって…


翌日からは避難所にヤマザキパンの菓子パンがどんどん届くようになった。

最初はありがたかったんだけど、日に日に量が多くなっていって、数日後は1食につきあんぱん5個とか、そんな感じだったのでほんとにきつかった。

でも支援物資なのだから文句を言うわけにもいかず。

何も食べれないよりはマシと思う事にしていた。


そんで私の顔吹き出物だらけになってしまいましてね。

お風呂にも入れてないし、着替えもない、タオルもなかったから顔も洗えずぬるぬる…

ずっと菓子パン生活が続いて嫌気がさしていたころ、炊き出しのボランティアの方がやってきて、

おおきな鍋で豚汁作ってくれたんだよなあ。

それが本当に美味しくって

体に染みるってこういうことかって泣きそうになった。

原発のこともあって福島にはそういうボランティアは来ないだろうって思っていたから本当にありがたかったな。

あの日炊き出しに来てくれたからありがとうございました。

 

そしてその幸せもつかの間、また菓子パン生活が始まるのであった…。

食パンが配給され始めたのは嬉しかったけどね…


そして避難所生活で嬉しかったのは自衛隊のお風呂!!!


たしか避難所に来てから4日目だった気がするんだけど

お風呂に入れるらしいと聞き、外に行ってみたら大きな深緑色のテントが張られててさ

中はよく覚えてないけどお風呂が魚の養殖してそうな雰囲気のお風呂だったっけな

制限時間つきではあったものの、しっかりお風呂に浸かれて生きかえる気持ちだった。

その時あたしタオルとかどうしたんだろ…



【避難所生活を通して…】


今はどうか分からないけど、避難所生活での支援物資は基本食べ物はパンなのでグルテン不耐症の方はお米系の非常食を準備された方がいいかと思います…

可能であれば電気ケトルなんかもあったらいい。

あたたかいものが飲めるだけでも全然メンタル違うと思う。

あの時は本当に菓子パンしか食べれなかったから精神的にきつかった。


あと、避難所では窃盗もあるので(親戚が避難所で一眼レフ盗まれた)貴重品は面倒でも常に持ち歩いた方がいいです。

支援物資をもらうときに荷物あさられて盗まれるよ…


避難所生活は5日くらいだったと思うんだけど、ケータイもなかったから正直1か月くらいの長さに感じる生活でした。

そんくらいきつかった。


続く。


 



【1話から↓】

あのときのこと。東日本大震災 【第3話】原発でも爆発したんじゃないか

前回の続き



近所の人の家で一晩お世話になっていたとき、ずっと泣いていた記憶しかない。

少し落ち着いたときにその家のおばちゃんが、ラップで包んだ塩握りをくれて、それを食べた。

フローリングの床の上で、集まった近所の人たちと雑魚寝しているときひとりのおばちゃんが余震が来るたびに「また揺れた」っていうものだからなかなか寝れなかった。

きっとおばちゃんも平気なふりしてるけど、またあの大きな地震がくるんじゃないか、また津波がくるんじゃないか不安だったんだと思う。

翌日。


父親が来てるっていうんで外に出た。

そしたら空にはヘリが飛んでて、山の坂道から見える、少し離れた橋の上には自衛隊のトラックがたくさん並んでる。


明るい青空の下で、一面ちゃいろに覆われたふるさとをまた目にして、昨日起きたことは夢でもなんでもなく現実なんだなって思った。


それから市役所の人と思われる人が縁石の上をよたよたと歩きながら、大勢で被害状況を確認しに来たのをみた。

市役所から縁石つたって何キロも歩いてきたのかよ。

落ちる落ちる!って感じで歩いているのをみてなんだか無性に腹が立った。

そんな恰好でしか来れないなら来なきゃいいのに。


それからは父親と隣町にある母の実家に行くことになり、車のあるところまで父におぶってもらった。


うちでは祖父母が米を育てていたんだけれど、小さいころに田植えの時期に田んぼの中に入りたくて入ってみたものの、泥にはまって抜け出せなくて妹とわーわーやってるところ、

父親がやれやれって感じで泥からスポッと抜いてくれてたんだけど、なんだかそんなこと思い出した。

この年でまた父が私を泥から守ってくれるとは思いもしなかった。


家の2階に残された祖父母は父親の妹の家でお世話になることになって、じーちゃんとばーちゃんとはそこで別れた。

母親の実家にいくと、そこには妹と母、叔母と叔父さんがいて、あんまり覚えてないけど妹に津波の事聞かれたり、あとは妹や母親がどう過ごしてたか聞いた。

私が津波に飲まれたと分かったとき、なるべくテレビは見ない方がいいと気を使われた。

妹の高校の体育館は、死体置き場になってるらしい。


母親は津波が来たというので心配になって山の方から向かって家の近くまで来てたらしいけど、一緒に来ていた職場の人に「あ~○○さん家、津波でやられちゃってるね」と言われたらしく

それで私が死んだと思って実家で泣いていたらしい。


そのとき高校も中退して心身ともにボロボロだったから大学受験すらできず、母親との関係も終わってて

きっと母親はあたしが可愛くないし、消えていなくなればいいって思ってるはずに違いないって思ってたから正直びっくりした。


それで母親の実家についてから分かったんだよな。

原発が爆発したの。

父親が原発の爆発音聞いててさ。

そのとき職場にいた父親が、雷みたいなゴロゴロ~って音がしたから

職場の人と「原発でも爆発したんじゃないかw」と冗談を言っていたらしい。


本 当 に 爆 発 し て た



初めて「放射能」とか「被ばく」ってワードを聞いて、第二次世界大戦のあのイメージしかなかったから、せっかく津波から一命をとりとめたのに原発のせいで「死ぬの?」って思った


その夜はマスクをして寝るようにしたんだけど、マスクが効果あるのかどうかも分からなかったし、

死ぬかもしれないんだって怯えながら一晩過ごした。


その翌々日に父親の車で福島市の避難所に行くことになって、避難所生活がはじまる…


続く。


 



【1話から↓】

あのときのこと。東日本大震災 【第2話】こんなことが起きても星だけはきれいでな

前回の続き。


津波が引いた後、3人で2階に上った。

ちなみに津波が来る前に家にきていたじーさんは、どうなったのか分からない。

記憶がまったくない。

津波が来たとき外に出て行ったのかどうかさえ覚えてない。

こわいので考えないようにしてる。


それで祖父母と3人で2階の私のに部屋に入って、ベランダから外の様子を見たらあたり一面茶色。すごく静か。

いつもなら5時に音楽が流れるのにそれがないからか、

元から静かなところではあるけど、いのちの気配をまるで感じない。


一体何が起こっているのか分からなかったし、自分は我慢強いと思っていたのだけれど、何が起こっているか、現状を把握しようとすると頭がふわっとして、崩れ落ちそうになった。


家の目の前は田んぼが広がっていて、小さい頃はよく犬の散歩に行ったし、

冬なんかは水を張った田んぼに白鳥がよく来ていたから、朝食を食べた後にばーちゃんの食パンをくすねて妹とエサをやりに行った。

その田んぼも泥で覆われていて、なくなったって思った。初めて腰を抜かす体験をした。

でも人間ちゃんとしてるものでここで気を抜いたら本当にやばいと思ったのか、次に自分が何をすべきなのか考えた。


まず着替え。

自分の服はあるけど祖父母の着替えがないので父親の古いスウェットを探した。

いつ助けが来るか分からない。

食べ物がなくてもとりあえず飲み物…と1階の台所に行ったら冷蔵庫が扉を上にして倒れてる。

そこからペットボトルのお茶とジュース

あと炊飯器を開いてみたら焚いてあるお米が無事だったから、戸棚の中にあった汚れてない鍋にご飯をよそって2階に上がった。


それから2階のチェック。

なにか使えそうなものはないか父母の部屋や、妹の部屋に入っていろいろ探した。

そしたら妹の部屋からなにやらTVの見れるソニーのウォークマンの様なものを見つけた。

しかも充電もある。

それを見たらひたすらTVは同じような報道をしていて、混乱が続いてるなって感じだった。


次に安否確認。

ケータイは水没してしまったから連絡はとれない。


4kmくらい歩けば町につく。でも1階はがれきでふさがれてて、外に出るには2階から出るしかない。でも、じーちゃんばーちゃんは?

山の上の近所の人にケータイ借りにいくか?

と思い、2階から外に出る事にした。

ちょうど、2階の屋根にがれきのトタン屋根が覆われていて、滑り台のようになっていたため、ここから降りられそう。

それでもトタン屋根から地面まで高さがありそうだったから、毛布を何枚か下におろしてクッションにした。

じーちゃんとばーちゃんに言うと危ないと反対されそうだったので黙って外に出た。


山の上へはちょっと歩いたところに道があるから、すぐ行けると思った。

が。

実際降りてみたら太ももがほとんど埋まるくらいの泥で、なかなか前に進めない。

これはやばいと思っていたら近所の別のじーさんが「大丈夫かー」と後ろからやってきて高齢なのに私の事をおぶってくれて家の後ろの山まで行けた。

私のことを背負いながら泥の中前を進むじーさんがすごくたくましくて、男の人って力強いんだなーって

男の人って年とっても男なんだなって思った。


そのままじーさんと近所の人のところに行ってケータイを貸してもらうとやっぱり繋がらない。

というかそのときすごい泣いてた。

緊張の糸が切れたのか、誰かに会ってホッとしたのか、なんか泣いた。

小さいころから人前で泣くような感じではないのに泣いた。


そのままその人の家のとこで一晩お世話になったんだけど一晩中余震が続いて気持ち悪かった。

家の中にいるのに船の上にいるみたい。


その人の家にはほかにも近所の人が集まっていたんだけど、雰囲気は意外にも暗くなかった

「○○さんとこは車買い替えたばかりなのに流されたらしいw」「まいったことになったねえ~…」とわーわー言ってた

あまりにも被害がすごすぎてきっとみんな受け入れられなかったんだと思うし、現実をそのまま受け入れて暗くなってしまったらなにかがぶっこわれるって思ったんだと思う。

その夜その家にきていたおばちゃんが、「さっき外に出てみたけど、こんなことになっているっていうのに、星だけはきれいでな」って言ったのが今でも覚えてる。


続く。

 

 

あのときのこと。東日本大震災 【第1話】世界が滅びればいいのに

今年で東日本大震災から15年なんですね。知らんかった。

実はというと私当時被災してましてね。

ブログを始めてからいつか書こうかな…と思っていたのですが、このブログに自分の事を赤裸々に書きすぎてしまったせいで身バレ嫌だなとおもいつつ書かなかったのですが

アクセス数も少ないですし、べつにいろいろ書いたところでたいしたことないだろ…

というか先日Youtubeの東日本大震災関連の動画のコメ欄で経験した人の話をいろいろ聞きたいというコメを見たので

まあ記録として、物好きな方は読んでくださいな。

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私は被災する18歳の頃まで住んでいた実家が福島第一原発の20km圏内、海の近くだったから当然津波の被害にもあって家は全壊した。

その時は同級生が高校卒業してそれぞれ進路の準備をしていた時期だったと思う。


でも私は17歳の時に朝体が動かなくなってしまってそのまま高校は中退。

それからしばらく死んだように眠った後、若かったから体はすぐ動くようになって遊び金欲しさにコンビニでバイトやり始めた時だった。


それまでいろんなことがしんどすぎて、社会にでてもこのしんどさが続くのかな…と思ったら死にたくなったし

冬には同級生が大学の受験料支払いにコンビニに来た時は自分がすごく惨めな気持ちになった

摂食障害は治らないし、中学のときのいじめがフラッシュバックしてくるし、あまりにも辛すぎて世界が滅びればいいのにって毎日思ってた。

そしたら本当に起こった。


その日はバイトが5時からだったから2階の自分の部屋でケータイいじってたら、いきなり警報音が鳴って動悸が止まらなかった。

そしてしばらくしてから大きな地震。

結構揺れるからただ事じゃないなと思って祖父母のいる1階に降りた。

それから本格的に揺れるもんだから、家がつぶれるんじゃないかって思ったし、かといって外も立ってられないほどの揺れで、

考えれば考えるほど、いろんなところが危険な場所に思えてどうしたらいいか分からなかった。

外で飼ってる犬もキュンキュン鳴いて怖がってるし。

とりあえずむーちゃんをよしよしして、その後祖父母と一緒に居間でTVを見た。


岩手の様子がTVに写っていて、なんだかとんでもない事が起こっているんだな…と思い、私も海が近いから避難した方がいいのかな…と思ったのだけれど避難なんて大げさかなとも思ったし、

それにじーちゃんが言うには昔も津波が家まできたことがあったけど、浅めの波が軽く来ただけでまったく問題なかったっていうし。

私ももうすぐバイトの時間だから、とりあえず行く準備してた時だった。

そしたら近所のじーさんが「電話!電話かして!津波がきてる!」と突然やってきてすごく焦ってる様子

騒々しくいろんなことしゃべるからばーちゃんも「なんだって!?」とそのじーさんの話を聞いてたら、

そのじーさんが窓見ながら、「来た!」というから私も窓を見たら黒いでっかい津波がすごい速度でこちら側にやってくる。

100m先に後ろの山に登る道があるからそこから登るか?とも考えたけどその途中で飲み込まれるのは分かったし、

飲み込まれるとして、遠目から見ても津波の中にたくさんのがれきがあるのは分かったいたから生存できない

2階に上るとしても家ごと流されてしまうかもしれない、

あたし死ぬかもしれないんだって思った。


そんなことを一瞬で考えているうちに、バリバリバリ!!!!!!とがれきと波がすごい勢いで窓を突き破って家の中に入ってきた。

そのときは昔の家によくある、家の裏口につながる土足で入る細長い通路と居間と台所の間にある細い柱につかまっていたのだけれど運よくがれきには直撃しなかった。

でもあとからどんどん上がっていく水位。

流れ込んできたがれきが足場になったから片方の手でケータイを持ちあげながらもう片方の手で柱につかまり必死に顔が波につからないように耐えた。

でも体勢に無理があってケータイぽちゃ…

連絡手段なくなった…

と思いつつさらに水位は上がって、顔を上に向けてなんとか息できるくらいまでになった。

これ以上上がったらあたし何分息止めてられるか考えてたんだけど、そこから一気に波が引いていって、

すこし動けるくらいになったときにがれきを足場にして勝手口の通路にある大きい棚に上って、

 

完全に波が引くまでじーちゃんとその棚に座ってた。

ばーちゃんは動けなかったけど、がれきが足場になってたから溺れることもなく、無事でした。

とにかく家がつぶれなかったこと、ぎりぎりのところで波が引いたことで一命をとりとめたんだけど

本当に運がよかったとしか…


続きはまた今度。